昭和48年04月25日 朝の御理解



 御理解 第48節 
 「わが子の病気でも、かわいいかわいいと思うてうろたえるといけぬぞ。言うことを聞かぬ時に、ままよと思うてほっておくような気になって、信心してやれ。おかげが受けられる。」

 眠ってはならんと思うて、かたくなっておると却って眠くなります。眠ろう眠ろうと思うておると、却ってなかなか眠りにつきません。そういう道理があるようですね。見てはならんぞと言うと見たい。是は勉強になるからしっかり見とけと言うと、ためになるものでも大して見たくなくなるとこう言う。私はそういう理をここでは説いておられると思うんですが。例えばタライの水を手前に引くと、向こうへ逃げていく。向こうへ押すとこちらへ返ってくる。
 けれどもやはり眠りたいのであり、見たいのでありこちらへ引きたいのであるという訳ですよね人間は。ですからそこへ確かに、おかげの世界とお徳の世界を感じます。だから同じここでおかげが受けられると、ここにありますけれども。この四十八節の、このおかげはお徳が受けられると言う事だと思うですね。教祖様の御理解この御教えには、大変矛盾が多いと言う人があります。確かにそんなに感じますですね。
 けれども片一方の御教えの場合は、いうならば子供に対して片一方の御教えは、大人に対してと言った様な所がある。だから同じじゃないです。だから実は矛盾じゃないですけれどもね、矛盾のように聞こえるわけです。私この四十八節を頂いて、教祖様の御理解の、最近新しく頂いておる御教えの中に、丁度そんな所が出ておるんですよ。読んでみましょうか。「信心する者は、万物の道理を知りて、疑いを去らねばならん。
 天地の神様がお造り下さる人間であるから、病気にかかった時に、天地の親神を頼んで、まめにしてもらうよう心願するのは、道理にかのうた信心ではないか。例えて言えば家は大工が作ったものであるから、修繕するのにも大工に頼んで作事をする。着物は女の手でこさえたものであるから、着物が古びた時には婦人の手で、洗濯仕立て替えすることは、誰でも知っている。人間は万物の霊長であるから、万物をみて道理に合う信心をせねばならぬぞ。」道理に合う信心をせねばならぬと言うておられる。
 その道理がやはり、いろいろあると思うのです。例えば病気をする。だからどうぞ全快のおかげを頂かせて下さい。これは道理に合うた事ではないかと言っておられます。神様が造られた体じゃから。だからその造り主の神様に修繕して貰うのだから、こんなに道理に合うた事はないじゃないかと教えておられる訳ですよ。所がここではそういうふうには仰っておられん。この四十八節では。もう要らんというごたる気持ち、もうほっておくような気持ちで信心してやれと仰っておられる。
 放っておくようなと言う所がです、その放っておけれる心というそういう信心が、私は同じおかげでもお徳を受ける信心だと思うですね。だからこれと四十八節と、今読ませて頂いたそれは、もう確かに矛盾であります。ところが私共の場合には、このどちらもの場合があるんです。願わなければおられない事があるし、又今この四十八節のような、ある意味では一つのゆとりを持ってです、ままよと言う様な心で願うと言った様な時と、やっぱりあるわけです。
 けれども今日四十八節を頂くのですから、このへんの所をです。私はおかげが受けられるというのは、お徳というおかげが受けられるというふうに頂かなきゃならんと思うのです。そうすると、今のこの読ませて頂いた御理解は、只おかげが受けられるというだけでしょう。病気をした時にどうぞ治して下さい、全快のおかげ頂かせて下さいと、只願うのは、それはこの体を神様が造りなさったんだから、造り主の神様にお願いをするんだから。いうならば、家の修繕を大工に頼むようなものだと。
 やっぱりそれも道理なんです。だからまずはそういう信心から入るわけですね、お互いが。只願うそして段々信心をわからせて頂いて、もう一つ深い意味に於いての道理。さっき申しましたように、眠ってよい時には眠らないで。さぁここはいっちょ眠っちゃならんと思うと途端に眠くなって、ちゃんと寝過ごしてしまっておると言う様な事があるでしょう。だからその辺のやはりこれは、道理というものがあるわけです。自分の方へ自分の方へ引こうとすると、タライの水が向こうへ逃げていくようなもんである。
 自分の手元には、只手でこう引きよせただけしか頂けないような道理だという訳です。信心を段々頂いて、愈々分からせて頂く事は、もう本当に、自分の知恵とか力というものでは、どうにも出来ないと言う事。所謂障子一重がままならぬ人の身であると言う事。ここの時点に立たせて頂いたら、お縋りをしなければおられない。もう本当に私共は自分で思わせて頂きますのに、例えば私は根っからの商売人ですから、商売には自信があり、商売は誰よりも上手であり、誰よりも出来るとこう思うておった。
 その思うておった私が、実際愈々の時になってみて、始めてはぁ今までのは、神様のおかげで出来でおったんだと言う事がわかった。だから神様のおかげを頂かなければ、出来ないと言う事が分かった。これが信心の根本です。今までそんなら皆さんでも、自分でするとこう言われる。だから成程出来る。けれどもそれは出来させて頂いておったんだと分かる。そこから実際は何も出来ない、所謂障子一重がままならぬ人の身である。本当に我無力であると言う事が分かる。
 そこからの願いに立たせて頂くとです。私は今日の四十八節の信心が分かると思う。子供が例えば病気をする。自分が出来る思うから、自分が枕元におってから、バタバタしてやると言う様な事ではなくて、自分ではどうにも出来ないんだから、神様のおかげを頂くより他にないと分からせて貰うから、例えばここで言う事を聞かん時に、ままよと思うて放っておくような、所謂心持ちが自ずと生まれてくる。我無力であると言う事実に、私共が、やはり一遍直面するというは素晴らしい事。
 自分で出来ると言う事は何一つもない。理屈の上ではすぐ分かるけれども、やはりね通らせて頂く所を通らせて貰わなければそれは分からん。自分ではどうする事も出来ない。そこからの願いそれがままよという心で願うというのはそう言う事です。けれどもまぁだ、自分で出来るという気持ちがある間はね、それは神様がこの体は造って下さったんだから、神様に御修繕を頼むと。
 成程それも道理けれども、それはどこまでもお取次を頂いて、お願いをする。お取次の徳によって病気なら病気が、全快をすると言う様なおかげである。これはどこまでもおかげ。私共がね本気で障子一重がままならぬ人の身であると言う事は、私が商売出来る思いよったけれども、実際は出来ないんだと。私がもう愈々、商売を止めてしまわなければならない時分の、商いというものは、それを日々感じさせて頂いた。もうこればっかりは、私は不思議で不思議でたまらなかった。
 けれども考えてみると、今まで例えば売ったのを自分は上手だと思うておったけれどもです。それは神様が売らせて下さっておったんだと、言う事に分からせて頂いた。それこそ、タオル一本でも自分の力で、自分の思惑で売ると言う事が、出来ないと言う事が分かった。いわゆる神様の前に無条件の降伏をした姿である。そこから任せる心というものが生まれてきた。
 その任せるという心がです、ままよと思うて放っておく心なんです。そういうおかげに現れてくる、おかげというのは、もうお徳というおかげです。ですから皆さんどうでもですね、自分で出来る等と言う、生はんかな思い方がすっきり、神様のおかげを頂かなければ、立ち行く事ではないという思いをです。本当に分からせて頂く所から、今日の四十八節の本当の真意というものは分かる。
 例えばこれは病気だけの事ではありません。一切の願い事がです、今こちらへ読ませて頂いた御理解抄の方の、いうならば只お願いをする、頼む神様のお働きでお取次の働きによっておかげを受けるという世界。そういう信心からです。私共が段々分からせて頂けば頂く程、あなたのおかげを頂かなければです、もう何一つが出来ないんだという自覚に立って願わせて頂く。その願いがです、ままよという心である。
 所謂神様へ任せて願うという心になるのです。だからそこに現れてくるおかげは、勿論おかげと言う事と同時に、お徳を受けるおかげです。ですからこれは一つも例えば、御教えに矛盾と言う事はありません。片一方はいうならば子供にでも分かるような説き方をしてあるだけのこと。片一方は信心が段々力を頂いて、いうなら信心の巧者な者、いうなら信心の大人に対する所の御理解が、この四十八節だと思いますね。
   どうぞ。